雑学大典 -57ページ目

すしのこどこのこたまのいのこ

昨日の夕食は実家で優雅にいただきました。
メインはキュウリと鮭の混ぜ寿司。
レンコンと豚肉の中華炒めと湯豆腐に味噌汁。

で、ふと思いました。すし飯とは何か?
これは料理する人にとっては、当たり前のことで、
食酢と砂糖と食塩をメシに加えるそうですね。
水分が加わるので、米を固めに焚かないといけない。

で、「すしのこ」はこの三つが併せてあります。
原材料名:砂糖・醸造酢粉末・食塩・酸味料。
水分を切ってあるので、普通の炊き方の米に加えればいい。

さて。さて。そこで問題。
「すしのこ」を作っている企業名は?
「タマノイ酢株式会社」でありまーす。
実は「有限会社か?」とか思っていたのですが(苦笑)
一部上場かどうかはともかく、株式会社です。
「すしのこ」のパッケージには、URLなど書いていないので、
いまどきHP持ってないのかな~と思ったのですが、
ぐーぐる検索したら、なぁんだ、立派なのあるじゃないの。
http://www.tamanoi.co.jp/index.htm

製品もいろいろありましたよ。
醸造酢に穀物酢・米酢・純米酢100・黒酢100・ヘルシー穀物酢。
すしのこの他に、中華でパーポー・酢ぶた・エビチリ。
あと飲料が、多いですよ~。
はちみつ黒酢ダイエット・はちみつりんご酢ダイエット
はちみつうめダイエット・はちみつプルーン酢ダイエット
はちみつ黒酢ダイエット濃縮タイプ・はちみつりんご酢ダイエット
濃縮タイプ・スーパー黒酢・はちみつ黒酢バーモント

こう見ると、なんかダイエット中毒みたいですね。(笑)
あと、パーポーっつうのは何でしょう?

 「パーポー」
 鶏ガラスープのうま味で更に美味しくなりました。
 新鮮な野菜や肉、魚介類を材料に八宝菜が手軽に作れます。
 (タマノイHP)

あ、「八宝」か! なるほどね。
また、レシピ&ヘルスケア、なんて項目もありますよ。

 ◆vol.5
 春におすすめ 春にちょっと素敵な自分に
 「フレンチちらし」
 ◆vol.4
 すしのこのかんたん、安心!
 「おにぎり弁当」
 ◆vol.3
 夏におすすめ
 はちみつりんご酢ダイエット濃縮タイプで失敗なし!
 「さわやかビネガードリンク」
 ◆vol.2
 すしのこで作る簡単、ヘルシーな海鮮どんぶり
 「しゃきしゃきまぐろ丼」
 ◆vol.1
 チーズの香りがいきるチーズケーキ
 「ベークドチーズケーキ」

え? チーズケーキにお酢?

 1,クリームチーズを室温に戻し、泡だて器でなめらかにし、
 砂糖を加え、溶いた卵を数回に分けて加え、その度になじませる

 2,ふるった薄力粉、生クリーム、穀物酢、
 湯せんにかけて溶かしたバター(熱いうちに)を順番に加え、
 その度によく混ぜ合わせる。

 3,オーブンシートを敷き、予熱しておいた型に流し入れ、
 180℃のオーブンで約40分焼く。

 4,焼きあがったら型ごとしばらく常温に置いて、
 粗熱がとれたら冷蔵庫で2時間冷やしてできあがり。

へえ。更にソムリエ田崎真也氏のお薦めレシピも……
あれ? 項目は表示されているけど、リンクが貼れていない。
スポーツ協賛事業が以下の通り。

 ◆神戸製鋼ラグビー部
 オフィシャルパートナーとして公式飲料などを供給しています。
 ◆セレッソ大阪
 ユニフォームスポンサー、及び
 飲料オフィシャルサプライヤーとして公式飲料を供給しています
 ◆オリックス・バファローズ
 Yahoo!BBスタジアム 球場スポンサーとして
 チームを応援しています。

そして、タマノイ酢中央研究所。
恐ろしく巨大な建物の写真が載っています。
大企業だ……

意外でした。朝からびっくりでした。

コギト・エルゴ・スム 語数問題

「我思う、故に我在り」
という言葉がございます。
哲学者デカルト博士のお言葉です。

 「デカルト」(1596―1650)
 フランスの哲学者、数学者。
 10歳のときイエズス会のラ・フレーシュ学院に入学した。
 そこで教えられたスコラ的学問に飽き足らず思い、卒業後は
 「世間という大きな書物」において学ぼうと決意して旅に出る。

中国の歴史書「史記」を書いた司馬遷も、旅に学んだ人でした。
詳しくは中島敦「李陵」参照。

 デカルトは近代哲学の父といわれる。
 数学者としては、幾何学に代数的解法を適用した
 解析幾何学の創始者として知られている。

解析幾何学というのは、円や直線を方程式で表すやつですね。
で、デカルトの哲学上の立場というのは……

 学問において確実な基礎を打ち立てようとするなら、
 少しでも疑わしいものはすべて疑ってみることだ。
 感覚はときとして誤るものだから信頼できず、
 私がいまここに、上着を着て炉端に座っているということも、
 これが夢でないという絶対の保証はないから信じられない。
 だが、こうして世界におけるすべての物の存在を疑わしいとして
 退けることができても、このように考え、
 疑いつつある私自身の存在は疑うことができない。
 このようにして、「われ思う、故にわれ在り」
 (コギト・エルゴ・スムcogito ergo sum、ラテン語)
 という根本原理が確立され、
 この確実性から世界についてのあらゆる認識が導き出される。

はい。でました。「われ思う、故にわれ在り」
ラテン語ではコギト・エルゴ・スム。
高校の国語の教科書で、たしか村上陽一郎氏のエッセイに登場し、
高校生達はこの言葉に触れるのです。

が、教室で問題になったのです。明らかに語数が足りない。

「われ・思う・故に・われ・在り」
5語あります。英語にしたって「I think, so I am」5語だ。
しかし「コギト・エルゴ・スム」では、三単語しか無さそうだ。
F先生は、弟子の百科事典読者に問いました。

先生「百科事典読者よ、どれが『我』だ?」
読者「さぁ……でも村上先生が『コギトとしての我』と
   書いてますから、『コギト』が『我』じゃないすか?」
先生「ふーむ。そうか。」
読者「『アルゴリズム』って言葉ありますよね。
   『エルゴ』と似てるから、
   これが『考える』みたいな感じじゃないっすか?」
先生「ふーむなるほど。」
読者「『スム』が英語の『am』とも似てるし、『在り』かしら」
先生「ふーむ。ふーむ。」
読者「『我・思う・在る』みたいな。」
先生「ふーむ……」

F先生ごめんなさい。大ウソでした。(爆)
以前紹介しました「クオ・ヴァディス」に出てくるのです。
格好いいペトロニウスが、ネロの廷臣を言い負かすのに、
「○○である。エルゴ(故に)××であーる」
と言うのです。「エルゴ」が「故に」なのです。
そして、ラテン語は主語によって動詞がバリバリ変化するので、
動詞の形を見れば、主語が分かってしまい、
従って主語は省略できるのです。
そういうわけで「コギト=思考す」「スム=在る」です。

なおフランス哲学が専門の友人によれば、
「コギト」は「思考する」であって「思う」じゃない、
それをラテン語じゃなくてフランス語で読むから、
ごっちゃになるんだ、と宣うておられました。

フランス語では「Je pense, donc je suis」です。
「じゅぱぁンス、どンくじゅスィぃぃ」と読みます。
以前、気が利いたタイトルのつもりで
メールに「Je pance」と書き、赤っ恥かいたことがあります……

月の女神の憂鬱 みるみる太る

家庭教師をしています。
現在教え子は一人。八人目の教え子です。
いまは国語と理科に力を入れています。
今週末は天体の運行を復習する予定です。

で、考えたんですよ。
たとえば、新月から数えて14日目が満月、といいますけど、
14日目の夜の間にも、月は地球の周りを公転していますから、
公転すれば、月は満ち欠けするわけです。
見ている間にも、
少しずつ太ったり細くなったりしているはずなんですよね。

じゃ、どれくらい変わるか計算してみよう、と思ったわけです。

新月から満月まで、まあ14日としましょう。
それから一日のうち月が出ている時間は、
場所や季節にもよりますけど、単純化のため、
一日の半分、12時間空にあるとします。(昼間は見えにくいけど)
1日は12時間が2回。14日間の中には12時間が28回分あります。
その間に新月が満月に変わるから、月を28等分して、
そのひとかけらが一晩のうちに増える……

けっこうザクザク増えていると思いません?
目の前で、みるみる太ってみるみる痩せます。
過食症&拒食症ですね。月の女神、憂鬱でしょう。

恐るべきテーマパーク

「養老天命反転地」を御存知ですか。
岐阜にあるんですけど。

ある日、私の友人でテーマパークマニアのカレが、
興奮して言うんですな。「養老天命反転地に行きましたよ!」と。
ヨウロウノタキ……? なんだそりゃ。
「岐阜にありましてね、心のテーマパークなんですよっ!」
心? ココロ? ボクのココロ???

大混乱です。
そして、混乱させられるテーマパークらしいのです。

現地へ飛ぶと、まず大地に巨大なあり地獄。
のような漏斗状のくぼ地、がありまして。
中心へ向けて、けっこう急な坂になっているそうです。
帰れるのかしら……

中心には「極限で似るものの家」と称するパビリオンがあります。
極限……? 似るもの……?
ドッペルゲンガーでもいるというのか。
屋根は岐阜県の形をしています。
こんな感じ↓


ホームページには、このパビリオンの「使用法」が載っています。
引用しますと、

●何度か家をでたり入ったりし、その都度違った入口を通ること。
●中に入ってバランスを失うような気がしたら、自分の名前を叫んでみること。他の人の名前でもよい。
●自分の家とのはっきりした類似を見つけるようにすること。もしできなければ、この家が自分の双子だと思って歩くこと。
●今この家に住んでいるつもりで、または隣に住んでいるようなつもりで動き回ること。
●思わぬことが起こったら、そこで立ち止まり、20秒ほどかけて(もっと考え尽くすために)よりよい姿勢をとること。
●どんな角度から眺める時も、複数の地平線を使って見るようにすること。
●一組の家具は、他の家具との比較の対象として使うこと。
●遠く離れている家同士に、同じ要素を見つけること。最初は明らかな相似を見つけ出し、だんだん異なる相似も見つけ出すようにすること。

じ、自分の名前を叫ぶ??? え? えええええ???
ひゃっ、ひゃっ、百科事典読者! ドクシャッ!!!
ひゃっ、ひゃっ、ひゃっ、ひゃひゃひゃひゃひゃぁぁぁ……

ちなみにホームページを開いていたら、ブラウザ落ちました。
続いて、この原稿を書いていたテキストエディタも落ちました。
OSも落ちそうになり、再起動コマンドは受け付けず、
終了コマンドを指示したら、半分透き通った確認メッセージが出て
フリーズしました。
フリーズする寸前、私のMacは何かを見出したんだと思います。

なお、「極限で似るものの家」の中には家具があるそうです。
天井にも家具が付いているそうです。
家ですからトイレがあります。
トイレの床には便器があります。天井にも便器があります。
よかったら行ってみて下さい。養老天命反転地。
http://www.yoro-park.com/j/rev/index.html

哀歌

数日前に話題にしていた蝶ですが、

次第に弱り、今日、死んでしまいました。

蝶の寿命はそんなに長くないですから、天寿でしょう。

しかし、寂しいものがあります。

詩でも作ろうかと思います。



そこで、今日は哀歌をテーマにしましょう。



 「哀歌」

・悲しい心情を表わした詩歌。悲歌。エレジー。

・「旧約聖書」中の一編。五章から成る。

(スーパーニッポニカ国語辞典より 全文引用)



後者は百科事典にも載っていました。



 「哀歌(Lamentation)」

 『旧約聖書』の一書。ギリシア語に訳されたときから、

 本書は「エレミヤの哀歌」とよばれ、預言者エレミヤの作と

 されてきたが、本来は五つの嘆きの歌を集めたもので、

 彼の作ではない。

 歌はいずれも、紀元前587年のエルサレム陥落とユダ王国の

 滅亡を歌ったものである。第2の歌(2章)と第4の歌(4章)

 は描写も具体的で、王国滅亡直後に書かれたものであろう。

 第3の歌(3章)だけは一人称単数で、王のような指導者が

 自ら詠んだ形式をとっている。また第5の歌(5章)以外は、

 それぞれ「いろは歌」の形式になっている。

 本書は苦痛に満ちた民族の受難を語り、

 救いを求める神への祈りを記し、

 亡国後のユダヤ人の気持ちを示す貴重な文献である。

 (木田献一著 全文引用)



聖書というと、

「お祈りの言葉が書いてある」みたいに思いがちですが、

部分的には歴史記述としても採用されるんですね。

なお、天地創造のくだりからすべてを歴史的事実と捉える立場が、

いわゆる「原理主義(fundamentalism)」です。

いまでは「イスラム原理主義」という形でよく耳にしますが、

元々はキリスト教の一派に対して用いられた言葉です。

というのは有名な話かな……いまさら新鮮味がないですか。



なお、西欧の詩の伝統で「エレジー」とは、死者を悼むと同時に、

それでも生きていかなければならない、残された者に、

力強いメッセージを投げかけて終わるもの、なのだそうです。

俳句には必ず季語を入れるのと同じように、

それがエレジーのお約束なんですね。

『フランケンシュタイン』の作者として有名なメアリーシェリーは

このお約束を逆手にとって、とことん嘆き節を通すことで、

夫のP.B.シェリーへの哀歌に最大限の悲しみを込めています。

なお、P.B.シェリーはロマン派第2世代を代表する詩人。

愛と革命の詩人。文学史上では、こっちの方がビッグネーム。

代表作は「プロメテウス解縛」でしょうね。

悪神ゼウスに理不尽にも捕らえられたプロメテウスが、

恨みや憎しみを克服し博愛の心に目覚めることで、

憎しみの化身であるゼウスが敗れ、世界が愛で満たされます。

非暴力不服従運動のガンジーが影響を受けたとされています。

日本の場合は、小説の方がメジャーな文学ジャンルなので、

妻のメアリーの方が有名ですね。



さて、どんな詩を書きましょうか。

蝶が死んでしまって、残された者に希望を与えるエレジーを、

というのも、何だかな、という感じですね。

嘆き節を通す気にもなりません。

「所詮、虫に過ぎない」という事実がありますから。

でも、悲しみは悲しみとしてあります。

悲しいのに、所詮虫だと言われてしまう。

そんな寂しさ、悲しさもあります。

蝶は少女のイメージが重なりますから、

そのへんも、含みを持たせたいですね。



世話のかかるヤツだっただけに、寂しい週末になりそうです。

ふぐふぐ。

昨日フグの卵巣を「チョウ」と言う、という話が出たので、
今日はフグで。
昨日フーシェ様の書き込みに、北杜夫氏の話が出ましたが、
北氏の作に「船乗りクプクプの冒険」という本がありました。
そんなわけでタイトルはふぐふぐ。で。

 「フグ(河豚・布久)」
 硬骨魚綱フグ目フグ科Tetraodontidaeの魚類の総称。
 広義にはフグ目Tetraodontiformesの魚全般をさす。

Tetraは「四つ」odoは「歯」という意味の
ラテン語から来ているようです。
四つの歯を持つことが特徴的だからですね。

 フグは、古くはフクとよばれ、
 平安時代には「布久」と書かれていた。
 現在でも関東・東北地方のフグに対し、
 関西・西日本地方ではフクとよんでいる。
 この魚の語源には諸説があり、水や空気を飲み込んで腹を
 膨らますのでフクルの意味でフクとよばれるようになった
 という説、あるいは、膨れるとフクベ(ひょうたん)に
 似るからという説もある。また、フクは「吹く」の意味で、
 この魚が水を吹いて砂中の餌を探す習性からつけられた
 名前だという説もある。さらに、朝鮮語でフグを「ポク」
 とよび、これが日本に伝わってホクとなり、フクに転じた
 という説もある。漢字の「河豚」は、中国の揚子江や黄河に
 生息するメフグが昔から食用にされていたため、
 これに由来するという。フグの姿がブタに似ているので
 河豚と書くようになったというのである。

「フクル」説や「ふくべ」説、「吹く」説は分かりますが、
朝鮮語「ぽく」の語源は何なのでしょうか。
そして、本当に関西では今でも「ふく」と言うのでしょうか???
また、フグを指す隠語について、こんな記述も。

 フグは鉄砲、北枕、ガンバ(葬式のお棺ガンより)
 ナゴヤ(尾張、終わり)などと死を意味する別名で呼ばれます。
 (健康食品「ノギボタニカル」ページより)
 http://www.botanical.jp/library/news/099/index.shtml

「ナゴヤ」とは、名古屋人に対して失礼ですな。(苦笑)
しかし「北枕でも喰いに行くかぁ」というセリフは、
自嘲的な風合いが都会的でお洒落だと思います。

幼い日の私は「船乗りクプクプ」が大好きでした。
彼のユーモアセンスは素晴らしいですね。

←へぇぼたん。

蝶絡みの雑学群

昨日は「蝶」をテーマに、
チョウとガの分類などについて調べました。
本日は引き続き「蝶」をテーマに、
より雑学っぽい内容を、いくつか。

たとえばDVD国語辞典によれば、
以下のものも「蝶」だそうです。

 「蝶」
・婚礼などの銚子につける紙製の雄蝶と雌蝶。蝶形。

へえ、そんな習慣あるんですか。
神式の結婚式で使うんですかね。見た事ない気がしますが。
まぁ、キリスト教式ではやらないわな。(苦笑)

・綿の花の異称。

綿の花を称して「蝶」風雅ですなぁ。
でも綿の花って、茶色いガクだか殻だかみたいなのが、
あまり美しくないですよね。
ちょっと無理があるような。

・フグの猛毒をもった卵巣の俗称。
 形が昆虫の蝶に似ているところからいう。ふぐのちょう。

うはっ。
これは食べたら死にますな。
なおフグ毒は神経細胞のNa+チャネルを動作不能にします。
Na+チャネルは神経細胞からナトリウムイオンを汲み出して
神経細胞をスタンバイ状態にする働きがあります。
そしてK+チャネルが神経細胞内部に
カリウムイオンを一気に汲み込むことで
神経細胞はスパークします。どかーん。
フグ毒は神経細胞がスタンバイするのを邪魔するので、
神経の興奮能力を奪ってしまうのでありまーす。
だいたい呼吸の制御ができなくなって昇天するようです。
南無阿弥陀仏。

それから、芸術作品のタイトルにも。

 「蝶々夫人」
 長崎を舞台に展開する国際結婚の悲劇。周囲の反対を押して
 芸者蝶々さんと結ばれた海軍士官ピンカートンは、
 彼女と子供を残してアメリカに帰国する。
 3年後、彼を待ちわびる蝶々夫人の前にピンカートンが
 妻を伴って現れ、子供を引き取ると申し出、
 誇りを傷つけられた彼女は自殺して果てる。
 女主人公の歌唱(アリア「ある晴れた日に」など)を中心に
 全体を構成したいわゆるプリマドンナ・オペラであり、
 歌手には高度な技量と体力が要求される。
 異国情緒を演出するために日本の民謡や童唄などを
 数多く引用しているが、それがプッチーニ独自の語法に
 溶け込んで円熟した作品となっている。

名前は聞いたことあったんですが、内容は知らなかった。
へぇ。マダムバタフライは日本人なんだ。ゲイシャさんですか。

なお、チョウの古名を「かわひらこ」と言うそうです。
「ひらこ」って、ひらひらするものの事ですかね。
「かわ」というのは、何のことですかね。

蝶 二つ折りにした恋文

二日連続、ルナール絡みのタイトルです。
ルナール、素敵です。『博物誌』を探して手に入れたいものです。

で、昨日はわが家の蝶の話だったので、
ついでですから蝶について調べてみます。

 「蝶」
 鱗翅目に属するガ類以外の昆虫の総称。
 頭部には、糸状で先端がふくれた一対の触角、
 および一対の複眼と単眼を具えるほか、
 ぜんまい状に巻いた口器があり花の蜜や樹液を吸うのに適する。
 昼間活動し、ふつう、はねを背上に立てて止まる。
 ガと異なり、繭をつくることはほとんどない。
 (スーパーニッポニカ国語大辞典より 各所省略引用)

オオムラサキが日本の国蝶。春の季語である、と。
問題はやっぱり蛾との弁別ですかね。
あまり意味のある分類ではないのだ、と聞いたことがあります。
夜行性と昼行性で分ける、という話も聞いたことがあります。
本当かな?

 「チョウ」
 (チョウとガの区別)
 一般に鱗翅目をチョウとガの二つに大別するが、
 この両者は対立する自然群ではなく、
 この用法は慣例的なものである。
 したがって、両者を厳密に区別する特徴を指摘できないのは、
 むしろ当然である。
 外国ではチョウとガをとくに区別しないことが多い。
 たとえば、フランス語のpapillon、ドイツ語のSchmetterlinge、
 イタリア語のfanfala、スペイン語のmariposaなどは、
 チョウとガを含めたことばである。

なるほど。
昼行性と夜行性で分ける、とは書いてありませんね。
むしろ、厳密に区別する特徴は指摘できない、と書いてある。
「鱗翅目は分類学的には同脈亜目と異脈亜目に大別される」
とありましたが、この「同脈亜目」とは古いタイプの鱗翅目で、
ほんの数種類のガが含まれるだけだそうです。
チョウとガの分類とは関係ない。

と、別なところに、こういう記述もあるのですが……

 異脈亜目に属するセセリチョウ上科とアゲハチョウ上科の
 2群をあわせてチョウとよび、
 それ以外のすべての鱗翅目をガとよぶ。
 したがって、チョウとガは対立する二つの自然群ではないが、
 一般にいわれている次の特徴は両者を区別する目安となる。

 (1) チョウでは触角の形は先端に向かって徐々に、
 あるいは急激に膨らんだ棍棒状かばち形、または
 先端部近くに膨らんだ部分があり、それより徐々に細まる。
 ガでは糸状または種々の程度の櫛歯(くしば)状。
 (2) 止まるときにチョウははねを立てるが、ガは水平に開く。
 (3) チョウは昼間、ガは夜間に活動する。

 (2) (3) は日本産のものでも例外が多く、
 判断の基準にはならないが、
 (1) の特徴は日本産のものに限っては例外がないので
 (外国にはある)、この特徴で区別は可能である。

一般的に言われている判断基準については良く分かったんですが、
セセリチョウ上科とアゲハチョウ上科がチョウ?
それじゃ、奇麗に弁別されているじゃないですか。
「対立する二つの自然群」って、何だ?

けっきょく、よく分かりませんでした。
が、思うに、まず「チョウ/ガ」という分類は、
日本人の感性に照らし合わせて、美しいのがチョウであり、
美しくないのがガである。という事だと思います。
西洋科学が入ってくる前から、
この二つの言葉は使われていたのですから、
この分類に科学的な根拠がなかったのは当然です。

でも、その分類を科学的な分類に当てはめてみると、
だいたいセセリチョウ上科とアゲハチョウ上科がチョウである、
と言えば、古くからの分類と衝突がすくない。

しかし、他の上科と、
セセリチョウ上科・アゲハチョウ上科の二つとを区別する根拠は、
科学的には、無い。あまり科学的な意味のない分類だ。
このことを言ったのが「対立する二つの自然群ではない」
という言葉である。

まあ、そういう事じゃないかな、と。

もっとも、蘭の仲間の遺伝子を調べたところ
いくつものまったく関係のない種に分類されることが分かった、
と先日新聞記事に出ていましたから、
チョウの分類も怪しいもんですね。

←へぇぼたん。

蛇 長すぎる

わが家はしばらく前に、読売新聞から朝日新聞に変えました。

母の「読売はアンチ広告が煩い」という意見と

私の「読売は社説がイケてない」という意見で、

父の「巨人軍は不滅です!」という意見を押しのけたのです。

ごめんねパパ。



「天声人語」はさすがです。読売の「編集手帳」よりも、

一段気が利いていると思います。

ただ、読売ファミリークラブが

美術展の招待券を安く提供してくれるのに比べ、

朝日はその手の活動が充実していないのが残念です。



さて。ここからが本題。

朝日の夕刊には「素粒子」というコーナーがあります。

毒舌が凄まじく、気に入っています。

そこに先日、以下のような一文がありました。



 「蛇、長すぎる」と述べたルナールならずとも

 「銀行名、長すぎる」と言いたくなるよ。

 みつびしとうきょうユーエフジェー



これは大した皮肉ではないですが、

すかさず、ルナールとは何者なのかを調査です。

「ルナール」という項目はありましたが、

それより、ルナールの作品「博物誌」が

独立した項目になっているので、そちらを引用しましょう。



 「博物誌」

 フランスの作家ジュール・ルナールの短文集。1896年刊。

 故郷シャロン近在の村で自然観察のかたわら書きつづったもの。

 簡潔な文体で豊かなイメージを描き出す詩的散文45項目

 (後の版では70項目)を収める。

 機知とユーモアからなる短文は、たとえば

 「蝶——二つ折りにしたこの恋文は、花の宛名をさがしている」

 「蛍——いったい、どうしたんだろう? もう夜の9時なのに、

 あの家では、まだあかりがついている」

 「蛇——長すぎる」など、気がきいていて美しい。



 ルナールは自ら「イマージュ(映像)の猟人」と名のるが、

 幻視者としての詩情は、

 俳諧的散文のなかにみごとに開花している。

 (窪田般彌 全文引用)



ところで、わが家にはいま蝶がいます。

ある日、部屋の中を飛んでいました。

畑で取ってきた作物に毛虫がついていて、

部屋のどこかでサナギになったようです。



しかし外には花もないので、母が飼うことにしたのですが、

あった花をやっても、蜜を吸わない。

砂糖水でもダメでした。菜の花でもダメでした。

この蝶、飛ぶこともないんですよね。

ふっと息を吹きかけても、あまり反応しません。

家に来てから、あまりきちんと餌を得られないままサナギになり、

発達に障害を生じたのでしょうか。

いまは、羽を閉じたままで、じっと菜の花にとまっています。

寒いのかとビニルで温室を作りアンカを近づけてやると、

トコトコ歩いて温まりに来ます。でも飛びません。



誰宛ての恋文だったんでしょうね。

開くと、書いてあるのかな?



とまれ、いい調べものをしました。

ルナールに敬意を表して、表題は作品からそのまま引用。

哲学者の困惑

せっかく「各業界裏舞台」というテーマがあるので、
私が生きている業界の話も書きましょう。
私は都内の某大学で、哲学・社会思想を学んでいます。
テツガクとシソウのお話です。

哲学と聞いただけで頭が痛くなる方も、
いらっしゃるかと思いますが、面倒な話は省きますので。

「哲学とは物事を論理的に厳密に考察する学問である」
とまぁ、哲学の教科書には書いてあるかも知れません。
真理を探究する学問である、と書く人もいるかな。
個人的な感想や偏向は排するのだ、というわけです。
冗談じゃないっすよ。(笑)

これが思想哲学界第一の裏話。
哲学だって人間が作るんだから、真理なんかであるわけがない。
哲学者の著作には、哲学者自身の感想、思い、ため息、が、
満ち溢れております。
ホッブズは現世主義者の健康オタク。
ルソーは社交界でいじめられて被害妄想の固まり。
カントはカチコチ動く人間機械。ヒトか貴様は?
ヒュームは天才。天才過ぎて理解してもらえない悲しみ。
マルクスはプライドの権化。ケンカの準備はいつでもOK。
みんな一癖も二癖も持った連中です。
思想や哲学を理解する鍵は、恐らく、
第一に前後の時代状況を解説書で押さえること、
第二に伝記で人物像を知って、感情移入できるようにすること、
じゃないかと私は思っています。

さて、思想や哲学にも、いくつかの分野があります。
まず西洋哲学とインド哲学がありますね。
中国やその他アジアはインド哲学の支流でしょうか。
あるいはアジアは文学という呼称で扱われることが多いです。
西洋哲学は、更に古代・近代・ポストモダン・論理学に分類可能。
古代はギリシャ。徳です。先生方も人格者さんが多いです。
近代は、おなじみホッブズ・ルソー・カント。メジャーです。
デカルトやニーチェもですね。
ヘーゲルとか、ハイデガーとか。人も多い。
ポストモダンは「モダン=近代」より後(post)の思想。
フーコーとかデリダとか聞いたことあるでしょうか?
ちょっと頭が切れる感じ。お洒落な印象。
論理学は、もっと数学っぽい、カチッとしたヤツです。
ヴィトゲンシュタインとか。

で、以上は大学の分類ですが、私の独自分類では、
独仏系と英米系に別れます。
英米系は単純明快、論理貫徹な感じです。
独仏系は、重厚で難解な感じがあります。
やや文学的で、私の感じでは、ちょっと論理的じゃない気も。

だからって悪いというのではありません。
思想哲学界第二の裏話。
思想は、ちょっぴし論理を踏み外したあたりが色気です。
だって人間ですから。論理でスパッと割り切れないのは当たり前。
だったら、人間の人間なるが故の圧迫で、
ぐにゃっと論理がひん曲がったあたりが、
触り心地が優しいというか、官能的と申しますか。(いやーん)

思想哲学界第三の裏話。
論理学者は困っている。
皆様。論理学という学問を御存知ですか。
A∧B⊃A(「AかつBならばA」と読む)
とかいうやつです。式など書いて数学チックです。
すぐれた論理学者は、困ったオッサンのような顔をしています。
なぜなら、論理学とは困った学問だからです。
どこがどのように困っているか。
論理学は徹底的に論理的であることを追究する学問ですが、
徹底的に論理的にやってしまうと、崩壊するのです。論が。
たとえば「独身者は結婚していない」
間違いないですよね。正しいですよね。正しいです。
この正しさを、論理的に説明してみましょう。
なぜ「独身者は結婚していない」と言えるのか。
「いや、だって、独身者とは結婚していない人のことだから」
ふうん。知らなかった。
そんな大事なことは書いておいてくれなきゃ困るな。
「独身者とは結婚していない人のことだ」
「だから、独身者は結婚していない」
まってよ。独身者が結婚していない人のことだと、
なぜ独身者は結婚していないと言えるの?
「いや、だって、当たり前じゃないか」
そんなの説明にならないよ。もっとちゃんと説明してよ。
「えええええ?????」

こんな始末ですから、
優秀な論理学の先生が優秀な学生とゼミを開けば、
かならず結論は「どうなんでしょうねぇ……」で終わります。

ビジネス関係のヒトは、
すぐ「ロジカルシンキング」とか言って得意げですが、
ロジカルシンキング(=論理的思考)を徹底すれば、
そもそもなんでビジネスなどやるのかわかんなくなって、
みんな考え疲れて昼寝大会になるのがオチなのです。
そうなったら、世の中よくなると思うのですが……